私は現在チベットの子ども支援という活動をしています。
これは2014年から始まって、今年で9年目を迎えます。
最初は、自分一人だけで、里親制度というものを利用していたのですが、そのやり方では、 里子の一人・二人しか支援できないし、ほんのわずかしか寄付できない。 また、ある程度余裕がないと続けてもいけないと感じていました。
あるとき、深く瞑想して、自分の使命を思い出すということに取り組んでいたときに、『チベットの子ども達を支援したい』という思いがポンッと入ってきて、涙が溢れてきたことがありました。これは、私のたましいから求めていたことだったんだと思いました。
同時に、これまでの里親という形式ではないと直感で感じました。
たまたまそんな折に友人の一人が、ご自分の庭をSNSに上げていました。そのお庭を見た瞬間、「わぁ、ここでハーブが育てられたらいいな」と勝手ながら思ってしまい、しばらく連絡をとっていなかった友人にコンタクトしてみました。
友人は二つ返事で、「それならぜひ畑を見にきませんか?」と誘ってくれて、高速バスに乗って、友人が住む長野まで出かけました。この段階では、ハーブを育てることとチベット子ども支援は全く結びついていませんでした。
まず、その土地に着いたときに、なんて波動が高い場所なんだろうと驚きました。
そして、本当に素敵な住まいに、波動が高い畑・庭があって、こんなすごいところでハーブが育てられたら、どんなにいいかと思いました。
その前に、チベット子ども支援のメッセージを受け取っていたので、そのことを友人に伝えると、「一緒にやりたい」と答えてもらい、さらにハーブを育ててそれをお茶にすることで、その売り上げを寄付したらどうかという提案がありました。
そこから、一緒に手伝ってくれる仲間が集まってきて、ちょうどこれから大学進学を控えたお子さんがいる仲間の人から、生活費から寄付をするのは難しいけれど、こういう形で寄付をさせていただけるのであれば、と喜んでいただきました。
そこから、ハーブを一から育ててお茶にしたりスプレーにして販売して、その売り上げを寄付していこうということになりました。途中、ハーブを専門に扱いネットショップやお店も持って本を何冊か出していらっしゃる萩尾エリ子さんからアドバイスをいただく機会にも恵まれ、ハーブティーにして提供させていただく方法などを教わることもできました。
こういう方法だと、寄付してくれる人も負担にならず、お茶やスプレーを買って喜んでいただけます。そして、それがチベットの子ども達の支援につながります。同時に、ハーブを育ててお茶にしたりすることは、波動が高いハーブの力を引き出させてもらって、皆さんに喜んでいただけるということで、私たちにとってもより一層の喜びをもたらしてもらえることになりました。
チベット子供村(TCV)45周年記念行事における ダライ・ラマ法王による子供たちへのスピーチ
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 ホームページより引用させていただきました
私たちチベット人は、様々なことを経験しながら今日まで努力してきました。今後も困難なことに直面するかもしれませんが、今までの経験を元にして、これからも私たちは一生懸命にやっていかなくてはならないと思います。
私たち人間を中心として、この世の中にはたくさんの様々な生き物が存在しています。私たち人間は幸福を求め、苦しみを望まないものですが、それは万物に共通しています。
私たち人間の営みや価値観は、道徳を中心に養わなければなりません。長い人生において、人の未来は、「仏教の教え」と「道徳」、そのふたつに基づいて養うことができると思います。
私はここで長い話をするつもりはありませんし、その時間もありませんが、強いて簡潔に話しをするとしたら、「万物は苦しみを望まない」ということを申し上げたいと思います。
人間は幸福を望みますが、幸せには様々なものがあります。
一時的な幸せは、道徳的な教育によって得ることができるものです。
そして、将来や来世の幸せは、仏教の教えに基づいて得ることができます。
[中略]
私たちは難民となって46年目になりますが、様々な努力をしてきました。今後もますます努力する必要があると思います。
人間の幸せは、「他者を思いやる心」に左右されます。そういう意味でも私たちには道徳的価値観が必要です。
良いことをすれば、自分も幸せになり、悪いことをすれば、自分も不幸になります。これは自然なことですね。
個人個人の幸せや心の持ち方次第で、社会そのものを変えることができます。
個人が良いことをすれば、社会も良くなり、個人が悪いことをすれば、社会も不幸になるのです。つまり、悪いことをすると、社会そのものが不幸のどん底に落ちるということです。
仏教を信じようが信じまいが、そういう意味で、良いことを行ってより良き人間になることは、個人個人に必要であり、社会全体に必要なことなのです。
良い人間が良い一生を送るためには、正しい教養と正しい知識が必要です。このふたつのバランスがなければ、より良い人間となり、良い人間生活を送ることはできません。
一時的な幸せ、そして永遠の幸せのためにも、教養と知識が必要となってきます。長い目で見ても、長期の幸せのためにも、知識と教養はなくてはならないものなのです。
また、ただ信仰する、三宝にただお祈りするだけでは意味はありません。本当の意味で信仰を持ち、教典を理解するためには、知識と教養が必要不可欠となります。
仏教は正しく理解したうえで信仰することが重要です。そうでなければ意味がありません。教えを理解するためには、基礎知識が必要となります。盲目的に信じるのではなく、原因を追及して、ひとつひとつ階段を昇っていくように、信仰していくことが大切です。
仏教を信仰しているからといって、真言を唱えたり、五体投地をするだけでは何ら意味はありません。正しい動機と正しい教え、そして追求心をもって、ひとつひとつのものを深く理解することによってのみ、深い信仰へとつながり、信仰はしっかりしたものとなるのです。
[中略]
自分の国のために声をあげ、国を創るために世界に向けて主張することには価値があります。真実に基づいているのですから、それは正しい行為です。
私たちは真実に基づいて闘っています。私たちには、自信を持って声をあげて主張すべきですし、その権利もあります。
誰かと向き合っても、顔をはっきりと見たうえで、自分の国の価値をはっきりと主張することができます。
自分たちには、正義も価値もあるのです。私たちの手の中には、真実があるのです。真実に基づいて話すとき、恐がることはありません。堂々と主張することができます。
チベット人に正義がないなら、価値を求める権利はありません。しかし、私たちチベット人には、自分の国のために主張する権利があります。
私たちが主張するのは、「非暴力」、「慈悲」、「思いやり」です。それを元に闘っているのであって、武器をもって闘っているのではありません。正義をもって闘っているのです。
正義に基づいて闘うためには、教養が必要です。今の世界の情勢の中で、正義と教養に基づき、チベットの価値を訴えることは重要です。
正義のためや、何かを勝ち取るためだけではなく、人間一人一人の生活においても教養はとても大切です。
難民のチベット人も、本土のチベット人も、自分の長い人生のためにも、仏の教えを守るためにも、政治や日々の生活のためにも、私たちには知識と教養が必要
なのです。